カナダで出会った「新渡戸稲造」⑥
- 矢野修三

- 2020年11月27日
- 読了時間: 4分
更新日:2021年5月11日
≪その知られざる魅力≫
☆ 台湾で大仕事、国際連盟でも!
武士道を出版した翌年1901年、新渡戸稲造は台湾総督府の役人となり、技師として
砂糖キビの改良に乗り出します。当時の台湾は日本の植民地であり、農業開発が大きな課題でした。そこで農学の専門家である新渡戸稲造に白羽の矢が立ちました。
これは当時の台湾総督府の児玉源太郎と後藤新平による強い要請でした。台湾の農産業、特に糖業はひどい状況で、新渡戸稲造は念入りに調査し、風土に合った質の良い砂糖キビを外国から取り寄せます。戸惑う農民をやさしく説得し、古い製法を改善し、その後台湾の
製糖産業は大発展を遂げることになり、新渡戸稲造は「製糖の父」として語り継がれてきたとのこと。素晴らしいですね。
台湾南部の高雄には日本統治時代の製糖工場跡があり、今は糖業博物館。そこに
新渡戸稲造の胸像があると、台湾にいる生徒が教えてくれたので、胸像に会いたく、
2016年に台湾を訪れ、高雄まで足を延ばしました。館長さんからいろいろ話を聞いて、
台湾に親日的な人が多いのは新渡戸稲造がそのきっかけを作ったのだ、と強く感じました。2014年にUBCの新渡戸ガーデンに台湾の人から稲造の胸像が寄贈されたのも大いに
頷けます。

糖業歴史館
日本に戻った稲造は再び教育者として活躍します。1906年に第一高等学校(現東京大学
教養学部)の校長に就任。教育者らしくない教育者として教育界に新風を吹き込みましたが、一部の学生や文部省などと意見の衝突もあったようです。
そのころの日本は日露戦争の勝利などですっかり浮かれており、学生の間でも野球熱が
高くなり過ぎ、早慶戦が中止になるなど社会問題になっていたようです。
第二回目に書いた「出会いのきっかけ」の「野球害毒論」(朝日新聞) がこの時でした。
でもなぜあのようなコメントを出したのか、どうしても理解できず、国際人・新渡戸稲造と
しては、かなりマイナスだったのでは、と思えてなりません。本人もあの世で
「野球害毒論」だけは後悔しているよ、と勝手に想像してしまいました。
女子教育にも力を注ぎます。1918年に創立された東京女子大学の初代校長に就任し、
文筆家としても大活躍、ますます名声を高めました。
大きな転機が訪れます。第一次世界大戦が終わると、1920年に世界平和を目的として
国際連盟が作られました。日本代表として新渡戸稲造にまた白羽の矢が立ち、事務次長に
就任。58歳、今度はスイスのジュネーブに向かいました。
スウェーデンとフィンランドの真ん中にあるオーランド諸島は昔から紛争が絶えず、
第一次世界大戦終了後も両国間で領土問題が起こり、一触即発。出来たばかりの国際連盟が調停役を務めました。その調停は、フィンランドが統治するが、言葉や文化はそのまま
スウェーデン式とし、オーランド諸島に高い自治権を与える。これが「新渡戸裁定」です。状況を熟慮し、白黒をはっきりさせず、寛容さを加えた、いかにも日本的な裁定として有名であり、オーランド諸島に平和をもたらしてくれた人として、今でも尊敬されているとの
こと。フィンランドでも新渡戸稲造を記念して毎年「桜祭り」が行なわれていると聞き
ました。素晴らしいですね。
さらにユネスコの前身となる知的教育委員会を立ち上げ、アインシュタインや
キューリー夫人を引き込んだのも新渡戸稲造であり、当時、国際連盟では
「ジュネーブの星」として高い評価を受けていたとのこと。うーん、すごい。
しかしながら、新渡戸稲造が台湾や国際連盟でこのような素晴らしい大仕事をしたこと
など、日本ではほとんど知られていません。なぜ歴史授業の中で教えないのか、
何か理由でも・・・、とても残念でなりません。

台湾の博物館にある新渡戸稲造の胸像

館長さんの許可を得て、襟元にカナダのバッジを置いてきました







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