≪ことばの交差点≫ 45

日加トゥデイ 2026年10月号 掲載
☆ なぜ「真秋」はダメなの・・・?
紅葉の候、10月も後半を迎え、秋の深まりを感じる。綺麗な紅葉に目も心も奪われてしまい、ここバンクーバー近郊にも美しいもみじがたくさんあり、大いに楽しませてくれる。
でも、この時期になると、日本語教師泣かせの質問を思い出す。なぜ「真秋」はダメですか・・・、である。
うーん、そう言われると・・・、こんなこと考えたこともなかったが、確かに、「真夏」や「真冬」は使うが、「真春」や「真秋」など聞いたことなどなく、もちろん使ったこともない。
この質問はかなり昔、真逆(まぎゃく)という言葉が若者言葉として、はやり始めたころと記憶している。ある日本語超上級者から、「真夏」や「真冬」そして「真逆」がいいのに、「真秋」はどうして使いませんか、と真剣に質問されて、びっくり、とても困った思い出である。その時は、「うーん、春や秋にはふさわしくないから・・・」と、実にそっけない説明になってしまった。
確かに、「真夏」や「真冬」はちゃんと辞書に載っているが、「真春」と「真秋」は載っていない。
そこで、いろいろ調べ、あれこれ考えた。四季である「春、夏、秋、冬」は、夏と冬が両端に位置しており、折り返し点である。その間に春と秋がある。こんな考えが頭に浮かんだ。
すなわち、夏と冬は折り返す地点としてとらえているので、その頂点として「真夏」や「真冬」はぴったりな感じがする。でも、春と秋は移っていく通過点としてとらえているので、「真春」や「真秋」はやはり言葉として何となく適さないのではなかろうか。
ちょうど、朝、昼、晩 夜と同じで、「真昼」と「真夜中」は使うけど、「真朝」や「真晩」などとは言わないように・・・。すなわち、夜と昼は午前と午後の折り返し点であり、そこで、その頂点を「真夜中」や「真昼」は必要だが、朝と晩は通過点なので、言葉として必要ないのであろう。日本語教師として、こんな思いをいろいろ巡らした。
言葉は文化の鏡であり、特に挨拶や季節に関する表現は国によって大いに異なるのは言うまでもない。日本は四季に恵まれた国、移りゆく季節を楽しむ文化があり、春、夏、秋、冬を表す言葉が豊富である。でも四季など馴染みのない国や、四季はあっても、その長さやそれぞれの季節感の違いは言葉の上に大きな影響を及ぼしていると思う。
さらに、こんな体験をした。日本語の「真夏」に関する英語として、「midsummer」を学んだが、バンクーバーに移住して、「the height of summer」という表現にも出会い、日本語教師としてその違いがとても気になった。でも一般のカナディアンの友人に聞いても、違いなど考えたこともなく、意味的にはほとんど同じと、そっけない返事である。
でも日本の夏を二回ほど経験しているバンクーバー育ちのS君が、ここバンクーバーの夏といえば、「the height of summer」のほうがぴったりするとのこと。確かに、日本語の「真夏」と言えば、猛暑の夏を想像する。でもここバンクーバーの夏は日本の夏とは雲泥の差。そこで、あえて「the height of summer」を日本語に訳すと「盛夏」や「夏本番」、中には「夏の極み」などと訳す生徒もおり、びっくり。いずれにせよ、彼は、「the height of summer」には、外遊びなどを楽しむ夏を待ち望む雰囲気を感じるとのこと。
なるほど。納得。
このようなことをいろいろ学んだ後で、改めて、質問した生徒と再会した。そして、今回は襟を正して、少し偉そうに、「季節に関係する言葉は文化そのものだから、国によって、さらに個人、個人によっても大きな差があり、正解などはなく、季節に関する質問はあまり意味がないよね。ちょうど、(midsummer) と (the height of summer) の違いを質問するのと同じように。季節の言葉に関しては、質問ではなく、意見を聞きたい、のほうがいいかも」と語り、「真春」や「真秋」も地球温暖化の影響で、近い将来は、普通の言葉として使われているかも、と頷き合いながら締めくくった。
正に、言葉は文化の結晶であり、時代とともに変わりゆくものなり。

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